定信と金沢・兼六園
定信と庭園をひも解く上で見ておきたいのが文 化人としての側面である。そのことを物語るのが金 沢の兼六園(図1)の命名者で、かつ兼六園の扁 額の揮毫を依頼された定信の教養の深さであろう。 (写真1)定信がこの兼六園の命名と揮毫をしたの が文政5年(1821年)定信65歳の晩年隠居暮ら しを謳歌していた時期である。命名を依頼された兼 六園の庭園整備は加賀藩5代藩主前田綱紀の 別荘・蓮池亭(1676年)の建設から始まっている。 その後11 代、12 代と庭園改修が続き13 代藩 主前田斉奏の頃(1820年代)現在の庭の形が 整い定信が命名、揮毫したと伝わる。
13代加賀藩主、将軍家への忖度
この揮毫,命名の背景には前田家の将軍家へ の忖度が見え隠れしている。例えば、13代前田斉 奏は定信が将軍補佐を務めた11代将軍徳川家 斉の「斉」の1字をいただき「斉奏」と改名し、家 斉の21 番目の娘を娶ている。このような背景から 江戸に3 つと福島に2 つの庭園を築庭し、また将 軍補佐から隠居して庭園で文化活動を盛んとし、定 信は月に1、2度親しい人を浴恩園に招き案内して いる。そのような時、斉奏が浴恩園を訪れ命名を依 頼したのかもしれない。