15前回、渋沢栄一が敬慕する松平定信が隠居生活の拠点として築庭した築地浴恩園がオリンピック終了後発掘調査に入り、東京都の恩人の庭園・浴恩園が甦る可能性をひも解いた。今回は、浴恩園の作庭のプロセスと特徴、中でも大名庭園でありながら「庭園文化の発信拠点」「花の庭」と称される理由等についてひも解いてゆく。
定信の庭園文化の発信拠点
定信はなぜ江戸に大塚・六園、深川・海荘、築地・浴恩園の3つの庭園を必要としたのか。下の図1のように、これらの各庭園は浴恩園を頂点とした役割分担を担う関係性で結び付けられており、浴恩園は、定信が運営する庭園に於ける文化の情報発信拠点であることを本誌№140でひも解いた。
再度ここで、定信の隠居と庭園作庭に至る経緯をおさらいしておきたい。天明6年(1786)、徳川幕府は第11代将軍を一橋家の家斉と決め、将軍補佐を松平定信が勤めることとなった。定信は社会不安が広がる中, 祖父である将軍吉宗の「享保の改革」を手本として幕政再建を目指し「寛政の改革」を実行した。それから6年後の寛政5年(1793)、将軍家斉が20歳となり、定信が36歳の時、老中を退任して温めていた隠居構想の実現へ走り始め、その前年には築地に浴恩園の土地を取得し、作庭に着手している。