11前回、大正7年、植治は東京進出とともに3邸の庭を作庭、植治を古河虎之助に紹介した 村井吉兵衛が同時期に東京永田町に「山王荘」を建設し、植治が作庭した庭(消失)を読 み解いたが、今回はいよいよ現存する旧古河庭園における植治の作庭構想と庭園のデザイ ンがどのように生まれたのかをひも解いていく。
西ヶ原本邸が完成
『古河虎之助君伝』によると、大正6年、古河 邸の竣工後に飛鳥山の渋沢栄一子爵が古河邸 を訪れ、洋館の2階から「前方の丘陵を指しながら、 ついでに彼の邊まで邸内に取り入れて置いたほう が将来のために良かろうと勧めたのに対し、君はイ ヤ現在の1萬坪でも私共には広すぎますから」と虎 之助は答えたとある。
渋沢の意味深長な冗談?
この話は、少し深読みすると、渋沢が古河邸の 南側の丘の所有者を意識して虎之助に冗談めかし く話している場面であるが、「前方の丘陵」とは、こ れまでの渋沢と三菱の関係をひも解くまでもないが、 宿敵であった三菱の岩崎弥太郎(明治18年死去) が買い広げた六義園と現在の染井霊園およびそ の周辺のことである。三菱の今後の土地拡張をこ こで食い止めるいい機会であるという話と読み込ん でしまう。大正6年、78歳を迎えた渋沢のこの意味 深長な冗談は明治前中期の両者のすさまじい戦い を知らない虎之助(32歳)には理解できなかったの か、もしくは過去の出来事としてはぐらかしたか。
引っ越しに3年、2つの謎
さて話は戻り、陸奥邸の跡地に古河邸の建設が 進み、大正6年5月にはジョサイア・コンドル設計の洋 館が完成した。また大正8年には植治作庭による庭