庭園都市江戸・東京 渋沢栄一物語「商都・田園都市・井の頭恩賜公園」
Apr 22, 2020
1 minute
文/椎名和美
新しい船出と地図
今回は、渋沢栄一が東京の街づくりとして係 わった商都建設の挫折から晩年の田園都市づく りまで渋沢と都市(街づくり)をひも解き、東京の 郊外公園の第1号・井の頭恩賜公園の誕生の背 景を探っていく。
明治6年に渋沢栄一は井上馨と一緒に大蔵省 を退官した。渋沢はこの当時の心境を『雨夜譚』 (あまよがたり)で述懐している。大阪出張からの帰 路「この末、政府においていかほど心を砕き、力 を尽くして貨幣法を定め、租税率を改正し、会社 法または合本の組織を設け、興行殖産の世話が あったとて、今日の商人ではとうてい日本の商工業 を改良進歩させることは成しえぬ」と、ついては自 分が官を辞し商業に身をゆだねるほかに道はない ようであるという決意を語っている。
日本の産業振興の産婆役
渋沢の生涯の中で、大蔵省退官はどのような 意味を持っているのか?
幸田露伴は、『渋沢栄一伝』の中で、「栄一は 時代の児として生まれた。(中略)実に栄一は時 代に造り出された」と述べ、明治、大正、昭和の 時間を「論語と算盤」を理念として駆け抜けた男・ 渋沢栄一の人間像を端的に言い表わしている。
この言葉 “時代の児、造り出された” とは、簡 潔に表せば以下のようなことであろう。幕末混乱期 に成人し、攘夷を計画、京都へのがれ徳川慶喜
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