引退の渋沢栄一 奥州へ
福島県白河市は奥州街道の最後の宿場であった。図1のように街の南方2km弱の丘陵地に囲まれた広い谷戸地形を呈する場所に南湖(公園)はある。明治13年(1880)南湖は太政官布告により公園となる。松平定信を敬慕する渋沢栄一(77歳)は、この年実業界を引退し、深川の浅野セメント問題を抱えていたが、大正5年8月に南湖神社予定地を視察している。この視察の背景を探ると、この年、皇太子(昭和天皇)殿下が行啓し、その前の明治41年には大正天皇が南湖公園に行啓しており、これを契機に白河町会では神社創建の動きが始まり町有地を神社地として寄付、賛助金を集めた。そこに渋沢栄一が担ぎ出され大正10年の地鎮祭にも出席し、栄一は引退した自身と、隠居し南湖を築造した定信にどのような思いを重ねていたのであろうか、南湖神社は大正11年に竣工している。
近代公園のさきがけ南湖
定信が約220年前の享和元年築造した南湖は日本の近代公園のさきがけといわれる。南湖以外にも、定信の祖父第8代将軍吉宗が享保6年(1720)築造した飛鳥山(公園)、徳川斉昭が天保13年(1842)築庭した水戸の偕楽園(公園)も近代公園のさきがけである。さて、定信は江戸に 3つの庭園、ここ白河に南湖とともに城址に三郭四園という庭園を築庭している。それでは南湖はどのようにして誕生したのか?