LANDSCAPE DESIGN ランドスケープデザイン

造園家・荒木芳邦 生誕100 年展を振り返って

平成9年(1997)10月24日、屋久島南部のモッチョム岳麓の農場に出掛けていた荒木芳邦(1921 ~ 1997)が急逝した。その前日、道の脇に長時間、停車したままの車があるのをもしやと思った地元の人が救急に通報した。その運転手こそ意識を失った荒木芳邦その人であったが、残念なことに帰らぬ人となった。

半年後の月命日にあたる平成10年(1998)4月24日には、大阪のリーガロイヤルホテルにおいて「荒木芳邦氏を偲ぶ会」が開かれた。会場となった「山楽の間」では、発起人代表であった小林治人氏の挨拶で黙祷を捧げ、同じく発起人代表・北村信正、近藤公夫の挨拶に耳を傾けた。その後伊藤邦衛の発声による献杯があり、生前の荒木芳邦のビデオ放映などがなされた。東京農業大学農学部造園学科4年生であった筆者は、主催者より特別の許可を得てこの偲ぶ会の末席を穢し、その一部始終を目の当たりにした。その3か月後の7月21日より、筆者は大学4年次の夏休みを利用して荒木造園設計に入寮。住み込みでインターンを経験し、久安寺庭園、大谷記念美術館庭園、釈迦院庭園、個人邸庭園等の現場で汗し、夜は大浴場でスタッフの方から荒木芳邦の思い出話をうかがい、休日は大阪、阪神間を中心に荒木芳邦の作品巡りに没頭した。荒木造園設計の社屋屋上でスタッフの方々とバーベキューを楽しんだこともあった。

荒木芳邦がこの世を去ってから25年が経つ。時の流れは予想以上に早いもので、造園を学ぶ若者は荒木芳邦と聞いてもピンと来ない者が増えてきているのも否めない。そんな折に、荒木造園設計の槇村吉高氏からいただいたのが「造園家 荒木芳邦 生誕100年展」の案内だった。これは、大正10年(1921)12月2日生まれの荒木芳邦が令和3年(2021)に生誕100年となることを記念し、荒木造園設計の社屋と庭園とを改装したカフェ&ギャラリー「GULI GULI」において、荒木の誕生日にあたる12月2日より、12月6日に至るまで開催されたものである。

 本展覧会では、荒木芳邦の代表作である大阪万博松下館庭園、東池袋中央公園、ドイツ・アウグスブルク日本庭園などの写真パネルを展示しつつ、映像で荒木芳邦の生い立ちや業績の詳細を丁寧に伝えた。会期中は、荒木造園設計事務所、荒木造園、荒木造園設計の元スタッフたちも多数訪れ、社員寮を改装した談話室では、荒木芳邦をめぐる思い出話に花が咲いた。

本稿では、生誕100年、没後25年を迎えた荒木芳邦とはいかなる造園家だったのか、どのような造園作品を生み出したのか、彼の造園のアイデアはいかなるものだったのか、荒木芳邦が戦後20世紀以降の現代造園にいかなる役割を果たしたのかを改めて振り返ることにより、今後の造園・ランドスケープの将来を展望する足掛かりとしたい。

植木の里・大阪池田と荒木芳邦

 荒木芳邦は、大阪の池田にて、造園業・植木生産業をなりわいとした荒木啓一の子として生まれた。屋号は「芳樹園」というが、これは荒木芳邦の祖父・芳次郎が創業したことに因んだ。芳邦という名は、祖父・芳次郎の「芳」の一文字を継いで命名されたものである。

池田といえば、「細河の植木」という名で、日本四大植木生産地(池田・宝塚山本、安行、稲沢、久留米)のひとつとして全国的に著名である。細河の植木とは伏尾、吉田、東山、中川原、古江、木部という池田の旧細河村の6集落で生産された植木のことであり、荒木の芳樹園は旧細河村ではなく旧秦野村の才田地区を拠点とした。ただし、昭和13年発行の『全国著名園芸家総覧(第13版)』(1938)に掲載された芳樹園の広告を確認すると、造園の設計・施工を請け負う庭園工務部、植木(街路樹、観賞樹)、芝草、果樹苗を生産する生産販売部のふたつの部門を有していたことが確認でき、造園・植木生産の中心にあったことは間違いない。

生まれながらにして造園が身近な環境にあった荒木芳邦が、関西における造園・園芸の名門、池田の大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高校)に昭和11年(1936)春に入学したことは、必然至極だったといえよう。ただし荒木の言によれば、府立園芸の3年間は教わることが多すぎたという。このころはまだ「造園」とは言わず「庭園」と呼んでおり、ほかに農業、園芸、畜産加工などを学んでいた荒木は、庭園だけを極めるというわけにはいかなかった。そんななか、府立園芸の教員が京都の古庭園の図面のコピーを配布し、それを携えて京都の庭園を順番に歩かせてくれたのだった。

「まず現場へ行って古い庭園からしっかりみて覚える」※1荒木青年はまずモノをつぶさに観察するところから、造園の学びをスタートしたようである。

東京高等造園学校で造園に打ち込む

昭和14年(1939)3月に府立園芸を卒業した荒木は、造園の勉強に専念すべく同年4月に東京高等造園学校に入学。特に高等造園では、2代目校長・龍居松之助、平山勝蔵らから、日本庭園の意匠、素材、設計の知識と方法を吸収した。高等造園時代の荒木青年は、「暇があったら図書館の本を片っ端から見た。新刊が入るとすぐ見る。その中でなにかいいものを得て、自分の頭に蓄積しておくことが必要」※2と本を読み漁って知識と発想の糧を蓄えた。当時の東京高等造園学校は、大森区調布大塚(現・大田区雪谷大塚町)に校舎があり、高級住宅地の田園調布に近かったことから、大邸宅の門や塀の実測にも打ち込んだ。荒木は、学生時代に高等造園の女性講師・角田鶴より造園製図をやかましく教えられていたが、重森三玲の『日本庭園史図鑑』が出版されるや、その庭園実測図を見て、「やられた」と悔しがっていたという※1。なお、重森の庭園史図鑑の図面は、荒木の高等造園の7年先輩、鍋島雄男(岳生)の手になるものである。荒木芳邦の造園活動初期の庭園設計図として、松山の井関邸庭園(1959)があるが、その精緻に表現された図面からは、建物と庭園との関係や庭園の空間構造のみならず、地形の抑揚、景石と地被のなじみ、土の湿り具合、上木が風に吹かれてもたらされるであろう木漏れ日の地模様までもが目に浮かぶような感がある。これは、荒木の頭の中ですでに完成した庭園の姿を克明に図面化したものとしか思えない。この卓抜した空間表現力・製図力は、間違いなく高等造園時代に培われたものである。

荒木がとった異名は、「人間トランシット」※3である。これは測量機材を使わずとも、正確に、ある場所とある場所の高さの関係を把握する超人間的な空間認識力を荒木が有していたことに因む。この能力は太平洋戦争に出征した荒木が塹壕を掘る担当となった際に備わったといわれているものの、東京農業大学造園科学科に所蔵される荒木芳邦の測量手簿をみると、几帳面な文字で測量成果が緻密に記録されていることが確認でき、人間トランシットこと荒木芳邦は高等造園時代からにすでにその片鱗を見せていたのではないかと思われる。

荒木芳邦が入学した当時の東京高等造園学校は、2か年の教育課程を3か年かけて学び、卒業するというカリキュラムを採用していた。昭和14年(1939)4月に入学した荒木は、本来であれば昭和17年(1942)3月に卒業することとなるのであるが、この当時は生徒の約半数が出征する時代の混乱期でもあり、3か月繰り上げて昭和16年(1941)12月に高等造園を卒業した。

卒業後の荒木は、造園学者・関口鍈太郎率いる京都大学農学部造園学教室の委嘱を受けて天龍寺庭園、南禅寺金地院庭園、清水寺成就院庭園等の実測調査を、昭和17年(1942)年3月まで、高等造園の同級生であった井上卓之、中根俊彦らとおこなった。荒木にとって、伝統的な造園の空間構造を、現場と図面とを同期させて理解する経験となった。

建築家との共同による造園の展開

京都での庭園実測を終えた荒木は、池田の大阪教育大学の造園(処女作)をおこなうも、昭和18年(1943)1月15日に入隊。軍隊では、満州で将校会館庭園を手がけた後、昭和20年(1945)8月に広島で原爆に遭い、そのまま終戦を迎え、大阪に戻った。

「昭和20年、広島で終戦を迎え大阪に帰ってきたが、やることがなかった。その日の飯の糧をつくるために、家で米をつくりながら仕事はないかと探した。この時に仕事の尊さをかみしめた。だから仕事に対しては厳しい。昭和30年頃までは何もわからずに仕事をした」※2と荒木は回想する。「造園について何もわからないため、人に使われることが大切だと思い、東京の岩城亘太郎のところに行くが、父親に反対され断念する。しかし、そこで諦めることなく、岩城氏の所を見せてもらった」※2とも荒木は述べている。荒木芳邦には特定の師がいなかったのは事実であるが、建築家との共同作業が数多かった。建築家との共同作業から、自らの造園・庭園の様式や空間の作り方を確立していったと思われる。

 昭和22年(1947)4月※4に荒木造園設計事務所を、昭和30年(1955)年に荒木造園を設立した荒木芳邦は、数々の建築家と共同作品を残した。なかでも多いのが吉田五十八である。奈良・大和文化館(1960)、大阪・料亭牡丹(1962)、京都・つる家京都岡崎店(1963)、大阪・日本万国博松下館(1968)など、昭和30年代から吉田が没した昭和年40年代にかけて、庁舎・会館、住宅、ホテル、料亭など10件を超える共同作品を生み出した。

吉田五十八に荒木芳邦を紹介したのは、高等造園卒の西川浩だった。井上卓之の師匠として知られる西川は、東京美術学校洋画部を卒業後、東京高等造園学校に入学した異色の人物で、美校では吉田五十八と同期だったからである。戦後ほどなくして、東京植木関西支店長として京都に移った西川浩は、京大の関口鍈太郎の研究室に出入りしていた荒木芳邦の能力を見抜いていた。昭和20年代の京都・西川浩自邸では、西川浩、荒木芳邦、井上卓之による造園談義が真夜中まで繰り広げられていた。「吉田五十八先生に荒木芳邦さんではなく、井上卓之さんを紹介していたら、また違うことになっていたでしょうと、つねづね、母(浩の妻)からは聞いていました」※5と浩のご子息・西川浩正氏は筆者に語ったことがある。「一人では力に限度があります。どうしても(建築家と)手をつないで行かなければ、新しいものは生まれません」※1と、荒木は後年に語っている。荒木芳邦は日建設計、安井建築設計事務所、村野.森建築事務所、清水建設、竹中工務店などさまざまな建築事務所から造園設計の依頼を受けたが、その出発点は、吉田五十八、その人なのである。東京高等造園学校の関西人脈が、荒木芳邦の造園的展開を決定づけていったのである。

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