資料・文・模写=野村勘治(有限会社野村庭園研究所代表)
「小堀遠州庭園の旅」前編では遠州の父の代からの活動や、周辺の人々との関わりを捉え、いかにして「小堀遠州」になったのか、その成長の過程を見てきた。そして、作品のベースにある代表的な美学「綺麗サビ」を利休、織部の美学と比較しながら実際につくられたかたちを探ってきた。代表作として南禅寺方丈庭園、金地院鶴亀庭園、孤篷庵のほか、「遠州好み」としての桂離宮、頼久寺庭園、居初氏庭園を例にとり、「テーマ」「ドラマ性」「借景」「立体絵画」「グラフィック」などのキーワードを用いて、具体的な遠州の美に迫った。今回は上記の3庭園を取り上げ、「庭園のテーマと構成」「具体的なデザインの展開」を細かく見ていきたい。忙しい遠州が自ら手を下せなかった庭園についても触れ、「思想とデザイン」が今日まで、どのように受け継がれているか、作品を通してその美を探るのが後編の狙いである。
1. 金地院庭園
(1)金地院の歴史
戸田芳樹氏(以下、戸田。敬称略) 金地院は応永年間(1394-1428)、室町将軍足利義持が洛北鷹ヶ峰に創建した禅寺である。これを以心崇伝(1569-1633)が慶長10(1605)年に現在の地に南禅寺塔頭のひとつとして移し、今日に至った。崇伝は江戸幕府の政治に参与し、外交・政策や社寺の建設に深く携わった重要な人物として知られている。
その後、崇伝の権勢が増すとともに金地院の大造営が行われ、小堀遠州のプロデュースにより東照宮や茶室「八窓の席」及び「鎖の間」を備えた数寄屋を含む建物と庭園が完成した。
野村勘治氏(以下、野村。敬称略) 当時の遠州は後水尾天皇(1596-1680)の二条城御幸を迎える御殿と庭園の作事を終えたばかりであった。金地院の建設は寛永4(1627)年に遠州が指図を描き、崇伝におくるところから始まった
崇伝が庭園をつくろうとしたのは将軍が上洛した折りの「もてなし」で、方丈が完成した寛永6(1629)年の翌年から前庭の「鶴亀の庭」にとりかかった。この方丈は将軍を迎える御成殿であり、前庭は儀式空間を前提としつつ将軍の権威を保ち、美しく威厳のあるデザインが求められた。
当時、遠州は公儀以外の仕事は憚られていた。しかし、幕府の「黒衣の宰相」と呼ばれ、後水尾天皇から国師号を贈られた崇伝が施主で、幕府の準公儀の仕事とみなされるプロジェクトに関わるのは当然のこと。崇伝の書いた「本光国師の日記」に、遠州が建物や庭園にどのように関与したか詳細に記述されている。
(2)金地院庭園で表現した意味
戸田 金地院庭園は「鶴亀の庭」として一般に知られており、鶴亀石組の造形を主体にした記述が多い。しかし、庭園が持つ意味は建築の配置や機能などを含め、総合的に判断しなければ真の姿は見えてこない。方丈前の白洲と石組、開山堂や東照宮など、境内全体の構成を紐解いて庭園の意味を探っていきたい。
野村 この庭園をひとことで表せば、庭の語源とされるニワそのものである。ニワとは神事・仏事を始めとする多目的空間のことで、金地院では徳川家康を祀った「東照宮」を遥拝する空間を指している。方丈前の白洲は「開山堂」に向かう参道であり祭事のための多目的広場でもあった【図-1】。
「東照宮」は庭園背後の一段高い壇上にあり、庭園から見上げて遥拝する位置関係。「開山堂」は庭園の東にあった唐門から白洲を通り西に向かう軸線上の見付けにある。将軍は唐門から入り中門を抜け、ニワの白洲を進み、方丈奥の貴賓室「富貴の間」の前から方丈に上り、上段へと向かう。