インフラ整備70 年講演会(第30 回)ー戦後代表的な100 プロジェクトー
大阪駅改良と大梅田のまちづくり
ー逆境を力に変えた民の知恵!公民連携による改良と進化の歴史ー
講演・記録・構成・文責/元(一社) 関西経済同友会常任幹事
うめきた・みどり推進委員会委員長 篠﨑由紀子
資料提供/(一社) 関西経済同友会
大手建設会社で都市開発業務に従事後独立。 ㈱都市生活研究所を設立し、ライフスタイルの 研究をベースに、生活者の視点を社会政策やま ちづくり、企業活動に反映させる観点で、シン クタンク業務に36 年間従事。傍ら関西経済同 友会で長年都市問題関連の委員会活動に携わる。 とくにうめきた開発に関わる委員会ではスター トから17 年間委員長を務めた。現在はフリー で女性活躍推進のサポートと後進の指導にあ たっている。
1、うめきた過去・現在・未来
私からはうめきたのみどりについて お話します。
関西経済同友会(以下同友会)はう めきた開発に深くかかわり、とりわけ 「2 期のみどり」の実現を先導しました。
同友会で17 年間うめきた委員会の委 員長を務めた私からこの間の経緯をお 話します。(表1)
大阪駅北側に24ha の梅田貨物駅用 地この用地は2 期にわけて開発されまし た。 完成すると大阪駅前に8ha のみ どりが生まれます。
うめきた2 期は従来の経済効率追求 の開発とは異質なまちづくといわれて います。
駅前の一等地に8ha の比類なきみ どりが生み出された経緯と同友会の果 たした役割をお話します。(表2)
2、まちづくり始動~ 先行開発区域完成まで
梅田貨物駅用地は国鉄民営化当時から構想 はあったものの開発は手付かずのまま21 世 紀を迎えました。
駅乗降客数1 日250万人を上回る大梅田 地区にあって、駅隣接の24ha というまとまっ た用地なので、大阪のみならず、関西にとっ て最後の一等地と言われていました。
当時この土地の所有者は鉄建公団。国鉄の 資産なので、2004年3 月末には処分を完 了すべしとの閣議決定がなされていました。
タイムリミットまで3年を切っても移転先 での反対運動などもあって、処分の目途が立 たず、おまけに当時は深刻な不況で、大阪の ビジネスの中心地御堂筋のビルでさえ空室が 目立ち、地価は下がり続け、不動産投資など 皆無でした。
そこに、2001年の春、小泉内閣がスター トし、緊急経済対策の柱の一つに都市再生を 掲げました。(表3)
その同じ月に、私たち同友会は「都市再生 で大阪活性化を目ざす委員会」を立ち上げ、 真っ先に「うめきた」の開発を取り上げまし た。
その年の11 月にはこの用地24ha を「計画 的な開発で、一体的な潤いのあるまちづくり をすべし」と提言しました。
当時の不況下では切り売りをした方が景気 は早く良くなると言う意見が多い中、切り売 りではなく、一体的なまちづくりで関西の魅 力的なゲートウェイを作るべきという提言で す。
実現には公的機関による土地の一括取 得が必須であり、国の都市再生プロジェ クトの指定が必要と指摘しました。
提言にあたっては国の都市再生本部、総理 の都市再生のアドバイザー役の伊藤滋先生、 土地処分を審議する委員会、移転先の吹田市 長など関係者へ積極的な働きかけを行いまた 関経連や他の経済団体にも呼びかけて経済界 一丸となって取組む体制を作り、まちづくり のスタート体制を整えました。(表4)
その結果、2002 年の7月にはこの貨物駅用 地を含む大阪駅地区が都市再生緊急整備地域 に指定され、地元では産官学のまちづくり推 進のための懇談会がスタートし、その後協議 会、機構に発展するなど、推進体制が整い、 計画策定や事業化方策の議論が始まりまし た。(表5)
この間に国際コンセプトコンペが実施され 海外からも含め1000近い提案が寄せられ ました。
これは優秀提案ですが、淀川から水を引く、 大きな緑の広場を真中に設ける、地上は7つ の島と水路とし車を排除するなど水と緑の素 晴らしい提案です(図1)
その後、2004 年7 月にまちづくり基本計画 が策定されました。