■ やめるときも、すこやかなるときもp147から引用
女性にだらしない下半身の軽い男だけれど、それくらいの分別は持っている、つもりだ「私も須藤さんのことが知りたいんです。もっと知りたいんです」けれど、本橋さんがまっすぐに僕を見つめてそう言ったとき、僕は気がついてしまった。相手を知りたいと思うことは自分の秘密をも明け渡すことじゃなかったか。そんなことが僕にはできるのだろうか?その日の夜、僕は自分の仕事部屋にこもり、すぐに本橋さんのための椅子を考え始めた。本橋さんの部屋にあったトチノキの一枚板の勉強机には、量販店で売られているようなクッション座面の高さ調節ができる椅子が添えられていた。あの勉強机を部屋の中心に据えて、その質感に合うような椅子を作ろうと思った。本橋さんが一日の終わりにリラックスして座れるような椅子。僕はクロッキー帳を広げる。洗練された都会的なイメージではなく、素朴でかわいらしさのある椅子がいい。 天然木の質感を生かしたもの。素材は使い込むほどに色の深みが増していくメープルか、ウォールナット、もしくはチェリー。 天然オイルで仕上げれば色艶に深みが出て、風合いが出てくるだろう。塗膜がない分、より木の質感を感じることができる。 僕はその椅子を本橋さんにできるだけ長い時間、長い期間使ってほしかった。座面や背の形はどうするのか。脚を三本にするか、四本にするか。僕は頭のなかにあるぽんやりしたイメージを抽出して、鉛筆を紙の上に滑らせた。この椅子に座って本橋さんは何をしたいだろう。僕は思った。それを聞く必要がある。そのときふいにメールの着信を知らせる音がした。窪美澄　やめるときもすこやかなるときも　p147

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