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Witness to War: Truk Lagoon's Master Diver Kimiuo Aisek (Japanese Kanji)
Witness to War: Truk Lagoon's Master Diver Kimiuo Aisek (Japanese Kanji)
Witness to War: Truk Lagoon's Master Diver Kimiuo Aisek (Japanese Kanji)
Ebook212 pages22 minutes

Witness to War: Truk Lagoon's Master Diver Kimiuo Aisek (Japanese Kanji)

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About this ebook

Photographers and writers have documented the shipwrecks of Truk Lagoon. Now author Dianne M. Strong presents this homage to the man who made the diving possible. Kimiuo Aisek (1927-2000) founded the diving industry in Chuuk, Micronesia, and put Truk on the world wreck diver’s map. As a seventeen-year old, Aisek witnessed “Operation Hailstone,” the American attack on “the Gibraltar of the Pacific.” Author Strong has attempted to depict through his eyes the world that Kimiuo lived, as an islander born under the Japanese mandate and as founder of Blue Lagoon Dive Shop. Pacific World War II history buffs and scuba divers will especially enjoy this unique Horatio Alger tale that Strong has written in her engaging “talk story” style. Now translated into Kanji, Japanese readers can learn the heartwarming story of how Kimiuo's friendships during wartime led to his becoming a worldwide legend and Truk Lagoon became an international memorial.

Language日本語
PublisherDianne Strong
Release dateMay 24, 2015
ISBN9781311597557
Witness to War: Truk Lagoon's Master Diver Kimiuo Aisek (Japanese Kanji)
Author

Dianne Strong

In 2013 Dianne M. Strong, Ed.D. raised $23,406 on Kickstarter and self published "Witness To War: Truk Lagoon's Master Diver Kimiuo Aisek." This 304-page hardcover book included 16 pages of full color, and full cover in the insides covers. Thousands of divers around the world know Dianne M. Strong as the Internet's "StrongDiver" or "TrukDiver." As the "adopted American daughter" of Kimiuo Aisek, she was uniquely qualified to write this biography. In 1970 she became a YMCA scuba instructor, and crossed over to the National Association of Underwater Instructors (NAUI) in 1977. Her certification as a trimix technical diver--enabling her to explore the underwater world to a depth of 200' using air with helium--is from the International Association of Nitrox and Technical Divers (IANTD). Before moving to the US Territory of Guam in 1972, she dove shipwrecks off the East Coast and the sunken R.M.S. Empress of Ireland passenger liner in Quebec, Canada. In 2001 she dove the nuclear shipwrecks at Bikini Lagoon in the Marshall Islands. She has been diving Truk Lagoon since June 1973 and loves diving the “ship reefs.” Strong holds two degrees in journalism: a B.A. from the Henry W. Grady School of Journalism at the University of Georgia (1967) and an M.S. in mass media from Syracuse University's Newhouse Communication Center (1970). Her Ed.D. in intercultural education is from the University of Southern California (USC, 1982). She taught writing at the University of Guam for eighteen years. By writing “Witness To War,” Dr. Strong had an opportunity to “practice what she preached.”

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    Book preview

    Witness to War - Dianne Strong

    キミオ·アイセック物語

    戦争を見たトラックラグーンのマスターダイバー

    ダイアン・M・ストロング

    序文: フランシス・X・ヘーゼル神父

    編集者: デヴィッド・ジェイ・モリス

    翻訳者: パルマー恵理

    2015年ダイアン・M・ストロングに著作権が帰属します。

    Smashwords版

    この電子書籍(eBook)は、個々の鑑賞のみに許可され発行されます。この電子書籍は、転売や他人への譲渡のためではありません。もしこの本を他人と共有したい場合は、それぞれ個人で本を購入してください。もし購入していないのに、あなたがこの本を読んでいたり、もしくはあたなが読むために購入したのでないならば、どうか自分の本を購入してください。この本の著者の努力をご理解をいただきありがとうございます。

    Acknowledgments

    謝辞

    この本の作成に力を発揮してくれたすべての人々の名前を思い出すことができないのは致し方ありませんが、記憶している限り全力を尽くしました。もし忘れた人がいたら許してください。

    文筆

    グアム大学(UOG)ミクロネシアリサーチセンター(MARC)局長の亡きダーク A ・バレンドフ博士、「The Last Dive」の著者で、私の執筆に関して指導者であるバーニー・チョードゥリー氏、「Scuba Confidential」の著者でIANTDのサイモン・プリドモア 、日本在住の作家ロバート・ホワイティング、ドン・シャスター博士、亡きジム・スミス、そして私が生徒たちに教えている間に、結果としてグアム大学の卒業生が私に本を書くことを教えてくれました。

    日本人コミュニケーターの方々

    ダイバーのオカダ夫妻(フミコ・アキオ)、ヒグチ・ワカコ博士、ヤマシタ・シンジ博士、ハラダーツィマー・フミコ先生、グアム大学(UOG)のフレッド・シューマン博士、スエナガ・タカユキ、スエナガ・クニオ、そしてジープ島のヨシダ・ヒロシ。

    リサーチ

    亡きクラウス・リンダーマン博士、エド・オクイン機長、亡きデイブ・シュトライト機長、ダン・ベイリー、亡きサム・レッドフォード、ウィリアム・スチュワート、サム・マックフィーツュトレス、ピーター W・ウィルソン、チャールズ・ヒリンジャー、1980年ミスユニバースのショーン・ウィザリー、イブリン・デュ―ダス、ティム・ロック、マイケル・ジョバニーニ、エンリコ・カペレッティ、チャーリー・アーナセン、ウィリアム・スパーロック、マック・グリーンウェル、ロバート・ロジャーズ博士、ギャリ―・ブリジッス、ビル・ジェフリー博士、マック・マーシャル博士、ロバート・ボドキン、老兵テッド・ウォカー(BM1)、マサトキ・ステイーブン、サンジョ・ボジュン、エメレン・アチニウィン、オトニエル・ルッドウィッグ, ジョシュア・スカ、ルーカス・メケヌック、グラドヴィン K・アイセック、そしてブルーラグーンダイブショップのダイブマスター達。

    原稿の見直しと追加情報の提供

    ヒグチ・ワカコ博士、フランシス・ヘーゼル神父、ポーリン・ベアード、ノマ・ヒサシ、そして愛国丸の絵の印刷許可をしてくれたノガミ・ハヤオ。

    書籍出版

    Northern Marianas Collegeのクリス・トッド、メアリー・カストロ、芸術家のロン・カストロ、「Shipwrecks of the Cunard Line」(2012年)の著者サム・ワーウィック。

    本のプロモーション

    K-57のレイ・ギブソン、グアム・プリザベーション・トラスト(Guam Preservation Trust)、ロザンナーペレッツ・バーシネス(Rosanna-Perez Barcinas), KUAM-TVのジェス・ルーハン、ミクロネシア連邦(FSM)アメリカ合衆国特命全権大使のアステリオ・タケシ、映像作家のマックス・グリーソン、マイケル・ガーキン、マイク・メスグレスキー, マイク・ハーバー、ミュナ兄弟、そしてバート・サードゥマジュニア。

    財務

    ミクロネシア連邦(FSM)政府観光局が2003年に「Witness to War」の宣伝用絵はがきを印刷をし、ナナコ・リパイは、Kickstarterキャンペーンを行ってくれました。ハードカバー本の印刷を手伝ってくれた182人の関係者の皆様に感謝いたします。「Witness to War」は、2013年11月、チュークでのブルーラグーン・ダイブショップの40周年目にデビューしました。

    フランシス・ヘーゼル神父、アル・ギディングス、亡きアレックス・アントニオ・ノラスコ、グラドヴィン・アイセックやミッシィ・ソスを含む私を養子にしてくれたアイセック親族の皆様、そして何よりも卓越した編集の技術を持ち、日本語が堪能なデヴィッド・ジェイ・モリスに深甚(しんじん)なる感謝の意を表します。

    Kinsou Chapur、ありがとうございます。そしてこのキミオ・アイセックの人生を記録することができて本当に感謝いたします。

    Dedication

    献辞

    私の親友でもあり、相棒でもあるロンへ、

    計画をして書いた本ではありませんが、とても良い作品になったと思います。

    ミクロネシア連邦、チューク州、ウェノ島、ネアウオ 村のトラックブルーラグーン・リゾートダイブショップに隣接して、2014年9月13日にオープンしたキミオ・アイセック記念博物館に、この本の売上金の一部が寄付されます。

    Foreword by Francis X. Hezel, SJ

    フランシス・X・ヘーゼル神父による序文

    キミオ・アイセックは、太平洋諸島出身者の1人として、他界する前に、世界的に有名なダイビング賞である2009年のインターナショナル・スキューバーダイビング・ホール・オブ・フェイムで国際的に有名になりました。戦前日本が統治していたチューク諸島で生まれたキミオは、若い時に日本の軍隊の助言者となりました。成人して、アメリカ人の友達から訓練を受けました。人生を通して彼が成し遂げた事の他にも、異文化に接し、言葉の壁乗り越えました。当時は彼だけではなく、他のミクロネシア人も同様でした。

    キミオ・アイセックへの賛辞として、ダイアン・ストロングは彼の文化的ルーツや、人々とどんなつながりがあるのか、とても個性的なキミオがどう形成されたのかを調べました。結局、キミオ・アイセックは、他の誰よりも日本艦隊の墓場となってしまったチューク諸島の沈船ダイビングに熱心でした。この本は、ミクロネシア諸島に住む人最新の伝記本であり、著者は、常に海が好きで初めに日本人の友達、のちにアメリカ人の友達ができたダイビングに情熱を燃やすチューク人の男の子が見た魅力的な光景を書いています。

    この本は多くの読書に多くのことを語っています。チューク人を知る私たちのように年配でアメリカ政権で生活してきた人々にとっては、名前や出来事が多くの記憶を刺激するでしょう。ダイビングを楽しむ人にとっても、チューク諸島は、過去も現在でも沈船が見られる所として有名なダイビング場所のひとつです。多くの人にとって、島でほとんど独学で学んだ者が、文化の壁を越えて自然に文化を伝承する魅力的な話です。

    しかしこの本は、沈船ダイビングの経験と同様に、その船にまつわる多くの犠牲者や破壊的な暗い時代を思い出されるでしょう。著者は、彼女の願いとして、海に沈んだ船が、戦争のない将来の平和を誓う沈黙の証拠として残ることを願います。

    -フランシス・X・ヘーゼル神父

    グアム、ハガニア、 2013年5月

    Editor’s Notes

    編集者のメモ

    ダイアン・ストロングとの友情は、私がマリアナズバラエテイ紙、グアム版の国際ニュースの編集者として働いていた時にさかのぼります。そして私の友達と呼ばないわけがありません、非常に自説に固執したシリーズのコラムを週2回担当していた私は、本当に最初のファンレターを彼女から受け取りました。

    今でも驚きなのが、長年にわたる第2の故郷である日本の長野に戻ってすぐの2012年の秋、ダイアンはまた手紙をくれて、そして彼女が書いた、チュークのスキューバ―ダイビング界の創始者であるキミオ・アイサックの人生に関する本の編集に興味があるかどうか私に聞いてきました。私はPADIのアドバンスドオープン・ウォーター・ダイバーの認定証を取得しており、たいていの人が趣味で普通にダイビングをするよりも、おそらくより多くの風変わりな場所でダイビングをしていましたが、実を言うと、チュークにいまだかつて行ったこともなく、キミオという名も聞いたことはありませんでした。私は日本の歴史と文化を数年間学んだ素人の学生だったので、日本語も上手に話せるとは言え、まだトラックと呼ばていたチュークが、大日本帝国の統治領のひとつだったという詳細は全く知りませんでした。

    要するに、この本の関係者に自分が貢献できるか確信ありませんでした。

    ダイアンは、しかしながら、彼女が書い日本語の出所に関するやりとりの助けとなる、プロとして編集の経歴がある人で、さらに日本文化、歴史、さらにキミオにとって重要だった道徳のあり方について彼女の理解を再確認できるような人が必要だと私を納得させました。

    引き受けて良かったと思っています。

    何年にもおよぶダイアンのリサーチを通じて、キミオや彼の家族、そして彼を知っていた多くの人との親密な人間関係ができ、とりわけ彼女はキミオのとてつもない愛情と尊敬を言うまでもなく感じ、ダイアンは、この本当に偉大な男性の話を生き返らせたのでした。さらに、彼女は自分自身よりも彼の意志でやり遂げました。著者は、キミオが自分の目で生きた世界と、さらに私の見解を表現しようと試み、見事に成功しました。

    この本で特に真実の部分は、キミオと日本人の戦友との関係です。ダイアンは、日本の軍隊の乱暴な側面の事実を排除しなかったのに対して、キミオが築いた友情や、その友情がどのように彼の人生を変えたのかについて彼の友情の話です。キミオ自身が語ってきた全ての話を通して、友情がこの本の主要なテーマです。

    ダイアンが初めてこの本の編集を私に頼んだ時、キミオのことは知りませんでしたが、今こうしてキミオの事を知ることができて、彼女に感謝いたします。キミオに実際に会うことができたらなと思います。

    編集スタイルのありふれた詳細に関する限り、日本語を書く時はローマ字で、翻訳をするときはヘボン式に従っていますが、多くの読者にあまり知られていないような特別な記号の使用は避けました。日本語表記における人物名は、典型的な西洋様式の語順に従い、先に名前、最後に名字です。

    場合によっては、日本語の文字や名前に使われている漢字は、多様な違った言い方で読まれます。例えば、多くの日本人は、キミオの大親友、ササイ少尉の漢字を、ササイではなく「シノイ」と読んでしまうかもしれません。そのような場合は、信頼できる日本語の出所から正しい読み方を常に確認しましたが、もし何か間違いありましたら、責任は全て私たちにありますのでお詫びいたします。

    トラック対チュークに関しては、この本では両方使用しました。トラック地域は、1979年に、ミクロネシア連邦として独立しチューク州となりました。多くの島の人々と同じように、キミオは交互にこれらの用語を使いました。この本では、しかしながら1979年以前を言及する時はトラックを使用し、礁湖のダイバーについて話す時や、現代国家について言及する時はチュークとしました。

    現地の人は、しばしばトノアス島(Tolas島という綴りの時もありますが)やデウブロン島、モエン島またはウェノ島などの島の名前を交互に使います。南洋群島の時代、ほとんどの島の人々は、日本語の名前は使用しませんでしたが、私たちは歴史的に関連があると思われた時に使用しました。

    さらに日付を書く時、日本やトラックの現地時間での日・月・年を使用したことに読者の注意を引きました。例えば、ヘイルストーン作戦の攻撃が始まったのは1944年2月17日と18日でした。時間はたいてい東京時間かトラック、グアム時間です。

    日本の翻訳に関して

    この本を翻訳するにあたり、老若男女を問わず日本人の読者にとって読み易く、気楽に楽しめることを目的とし、そしてまた原文はパーソナルスタイルの英語で書かれているため、詳細にキミオ・アイセックの興味をそそられる人生の話を語ることに重点をおきました。そのため、多くの読者になじみのない漢字や専門用語の使用を避け、平易な言葉を選びました。同様に通常英語で書かれた資料を元に原本が書かれているため、日本人の名前や場所を含む正確な漢字の文字表記がありませんでした。このような多くの場合、キミオの話には差異がないため、さらに読者が知らない言葉を調べるために読み止まることのないように、単に漢字を省きカタカナを使用しました。

    -デヴィッド・ジェイ・モリス

    Preface前書き

    私の人生に変化があったのは1971年1月11日でした。その月曜日の夜、ABCテレビ局で、「ジャック・クストー(Jacques Cousteau)の海底の世界、沈船の礁湖」を放送していました。ロイド・ブリッジス主演の1958年に始まったテレビシリーズである潜水王マイク・ネルソン(Sea Hunt)を楽しんだ、アメリカ人である私たちはこのドキュメント番組に夢中になりました。当時は白黒映像のテレビ放送だったが、現在クストーが撮った写真はカラー映像で、水中光に照らされて、トラック諸島に沈んでいる絶妙に美しい沈船を捉えていました。老兵冷水沈船ダイバーとして2年間経験した者として、今私はこのような熱帯の「船礁」でスキューバー・ダイビングをすることに憧れていました。

    米国領であるグアム島に、私が今後40年以上も住むことになるとは夢にも思っていませんでした。グアム島から直行便で8時間ぐらい離れたトラック島が、すぐに自分の家の裏庭にあるような海水プールとなりました。ベテランのジャーナリストとして長旅は慣れていたので、1973年6月に初めてトラック島を訪れたのは自然なことでした。漁業で働いているキミオ・アイセックが、私の夫であるロンと私のガイドでした。1998年までには私はトラック島を40回以上も訪れると、キミオは私を「養子にしたアメリカ人の娘」として紹介し始めました。その時までには旅行日記が分厚いファイルとなりました。

    キミオは、沈船発見者やダイビングのガイドとして有名になっただけではなく、話をするのが好きな控えめな島人で、太平洋諸島で伝承に成功しました。1999年までに私は彼から聞いたこれらの素晴らしい話が途絶えないように、キミオの伝記を書くことを決めました。キミオと彼の家族も承諾の上で、全面的に私に協力してくれました。

    キミオが彼の「お客様」であるダイバーたちに話を繰り返し話した時に、私はこれらの話は彼の人生の重要な一部だったと確信しました。のちのチューク諸島であるかつてのトラック島を訪れるたびに、私は、特に2001年に他界したこのユニークな男性であるキミオの多くの話を選び、用いることにしました。

    18年間グアム大学で執筆について教職をしていたにも関わらず、私が伝記を書くとは決して想像もしていませんでした。しかしキミオに約束したのです。伝記作家として著名なレオン・エデルは「伝記作家は、真実だけを語る小説家である」と書いています。従って私はキミオが見たありのままの世界を、そして彼が語っているようかのように書くように努力しました。

    キミオの話と、1927年にキミオが生まれた日本統治下の南洋群島のリサーチに基づいて、キミオの話と合わせました。さらにマーク・ピーテイ、フランシス・ヘーゼル神氏、スザヌ・フォルガウト、ローレンス・マーシャル・カルーチ、そしてワカコ・ヒグチ氏などのこの分野における専門家の本も参考にしました。私はこのような分野の専門ではありませんが、キミオの人生は戦争の目撃者として過去の出来事を正確に表現することに努力しました。

    アル・ギディングス、ポール・ジモリス、ダン・ベイリー、クラウス・リンダーマン、ヒサシ・ノマ、ギャリ―・ブリッジス、マイケル・ガーキン、マックス・グレソン氏やその他、トラック島の沈船についての詳細を教えて頂くことで、私は愛国丸だけに専念することができました。この本の読者は、愛国丸がキミオが紹介した日本軍隊の船だったとわかるでしょう。キミオが1973年11月13日にブルー・ラグーン・ダイブ・ショップをオープンした時、会社のロゴとして愛国丸の外形が使用されています。

    この本に協力してくださった多くの方々に感謝します。間違いがあった場合は、私の責任です。Kinisou Chapur(チューク語でありがとうございます)、Arigato –Gozaimasu(有難うございます)。そして私と共にキミオ・アイセックを知っていただき感謝いたします。

    Table of Contents - 目次

    A Tribute - 賛辞

    Chapter 1: Uchida - ウチダ

    Chapter 2: Sasai - ササイ

    Chapter 3: Tidal Change - 潮の変化

    Chapter 4: Island Youth - 島の青年

    Chapter 5: Man of the Sea - 海の男

    Chapter 6: Starfish - ヒトデ

    Chapter 7: Jet Age - ジェットエイジ

    Chapter 8: The Aikoku Maru - 愛国丸

    Chapter 9: Dive Boats - ダイビングボート

    Chapter 10: Blue Lagoon Dive Shop - ブルーラグーン・ダイブショップ

    Chapter 11: Aikoku Reprise - 愛国丸リプライズ

    Chapter 12: Divers Talk Story - ダイバー達の語り話

    Chapter 13: The Reunion - 再会

    Chapter 14: The Resort - リゾート

    Chapter 15: The Legacy - 遺贈

    Kimiuo Aisek Memorial Museum - キミオ・アイセック記念博物館

    About the Author - 著者について

    Bibliography - 参考文献

    A Tribute

    賛辞

    トラック礁湖、1975年2月10日の朝、4人のチューク人は、漁場にある小屋に静に立っていました。海で働く人々は、芯が強く、とても恥ずかしがりやだが、とてもしっかり者です。アンジキン、シニパス、マイクそしてキミオは、私にゆっくり近づいて、私の手を握り挨拶しました。私は興奮しました。彼らは他の場所でみる海の男たちと同じ特徴があったのに気が付いた。私は過去に何度も日に焼けたキューバ人の船乗りや、タヒチ人の真珠を生業とするダイバー、漁業の中心地として盛んなアメリカ合衆国、マサチューセッツ州のグロスター市の最上のタラ漁業者たちをみてきました。物静かで、自信に満ちていて、しっかりした魅惑的な海の男たちにみな共通していました。

    その日の朝、ひとりの男性はリラックスして、恥ずかしがってはいませんでした。その賢い島の長は、のちに世界を魅了するダイビングのメッカとしてトラック礁湖を有名にするのでした。たった5日間で、キミオと一緒に130フィート(約40メートル)の深さの海をもぐった私は、330フィート(約100メートル)ほどある日本の潜水艦シノハラのハッチをカメラに映すとは想像もしていませんでした。それは、まるで無口な戦士の潜望鏡が1941年12月7日の真珠湾攻撃(パール・ハーバー)の混沌を見ていたかのようでした。

    38年後、他のイベントや、展覧会、偉大な海底の探検者たちの映像が徐々に頭をよぎりました。このような個人的な経験は、バラード、クストー、キャメロン、サガラビッチなどの数えきれない他の人々たちの体験も含みます。これらの映像というのは、ミクロネシア人の語り手の魔法のような笑顔や、人から尊敬されたキミオ、私が敬愛したこの男性が、静かで透明なトラック礁湖で彼がたたく優しい太鼓に合わせて一緒に踊っているのです。キミオを慕っていた他の人々やその友情を大切にした人々のように、私が聞いた「彼の語り」をどこかで、誰かが読み、聞いて感動してくれることを祈ります。私はキミオがいなくて寂しく思います。

    ―アル・ギディングス, モンタナ州、プレー町 2013年

    17歳の時、チューク島住民であるキミオ・アイセックは、トラック礁湖を攻撃するアメリカ軍の「ヘイルストーン作戦」を目撃した。.

    Chapter1: Uchida

    ウチダ

    1942年、カロリン諸島、チューク環礁(トラック環礁)

    旧大日本帝国委任統治領 南洋群島 夏島(トノアス島又はデュブロン島)

    キミオ・アイセック少年は、生まれ育ったここトノアス島にある大日本帝国海軍第四艦隊所属の海軍基地に向かっていた。基地へと続く道、舗装されていなかった。少年は、裸足でのんびりと歩いて行った。15歳。顔立ちもしっかりとしていた。もうすぐ基地というところで、1人の海軍将校がフェンスの向こうから歩いてきた。このチューク人のハンサムな少年を見つけたからだ。午後のふんわりとした静けさが彼を包み込んだ。すると彼は少年にココナツジュースが飲みたいと伝えた。

    キミオ少年はとても身軽だ。日本人から頼まれたことだからということもあったが、すぐ近くにあるヤシの木に登ると、熟れた実をすぐに見つけ、そして満足げに地面に降り立った。待っていましたとばかりに、彼は少年にナイフを手渡した。さすが島の少年だ、スパッと一刀両断。待っている将校の前で、慣れた手つきでココナツのてっぺんを切り落とした。飲みやすいようにふちを削ると、少年はココナツを彼に手渡した。

    午後になると、チュークのこの蒸し暑さは半端ではなかった。環礁を包み込む南国特有の湿気には耐え難いものがあった。マングローブ林から放たれる強烈な臭気に、干潮のタイミングが重なり、むんむんとした空気が辺りに充満した。西太平洋の北緯7度にある島々といえば、この息も詰まるような暑さは別段驚くほどのことでもない。貿易風がやってくるのはもう少し先のこと。季節は雨期だ。島のあちこちで降る雨は水蒸気となり、やがて島全体を毛布のように包み込んだ。

    そんな蒸し暑さの中、短パンに半袖のシャツ。胸元のボタンはとまっていなかった。そして、制服の緑色の生地は、デニム素材にも見えた。南洋群島において彼の制服姿は、南国風にアレンジされているようだ。キミオ少年は以前、同じ素材の制服で、長袖長ズボンを着用した海軍将校たちを見かけていた。

    手渡されたココナツジュースをごくごくと豪快に飲んでいた手が止まった。口を手の甲で拭うと、重たい実を落とさないようにバランスをとりながら左手に持ち替えた。また背が伸びたのか。彼は少年の頭に手をかざした。

    それから少年は、彼にナイフを返した。ナイフの持ち手が彼の方に向くよう配慮しつつ。

    「君、名前は?」

    その将校は、現地の言葉でたずねた。

    「キミオ」

    少年はそう答えた。そして、まるで彼の話を遮るかのように、流暢な日本語で同じ質問をした。なんて優しい声だろう。目上に対する礼儀のことなど、どこかへ行ってしまったようだ。

    「ウチダ上等兵曹だ」

    彼はそう答えた。

    当時大日本帝国統治下のトノアス島では、子どもたちはみな「コウガッコウ」に通っていた。キミオ少年は大日本帝国による公教育を3年間受けていた。コウガッコウこと、公学校では、朝から子どもたちがひらがなやカタカナの50音を一生懸命、そして長時間勉強していた。そのほかにも、シュウシンキョウイク(修身教育)は道徳教育の一環で、子どもたちはみな天皇の子としての正しいおこないについて学んでいた。トノアス島も「夏島」という名で呼ばれるようになっていた。

    南洋群島

    大日本帝国の武装クルーザー クラマ がチュークを訪れた。それ以来、これらの島々は大日本帝国の統治下になった。1914年10月21日のことだった。商人や漁師が送り込まれ、経済発展を支援する代わりに、他国との海上貿易を制限した。1919年までには、国際連盟は大日本帝国に対し、正式に南洋群島のC式統治委任を認めた。大日本帝国は軍事的利用をしないことを条件に2000もの島々を統治することとなった。

    アメリカ領グアムを除き、マーシャル諸島、パラオ、マリアナ諸島といった島々と、そしてチュークを中心にカロリン諸島も大日本帝国の統治下に入った。1922年3月、これらの島々に住む人々の暮らしの安定化を図るべく、南洋庁が設置された。軍は介入せず、あくまで民主的な統治だった。

    大日本帝国海軍第四艦隊

    1939年12月には大日本帝国海軍第四艦隊がチュークにやってきた。キミオが13歳のときだた。およそ800平方キロにもおよぶ環礁の自然に護られた停泊地となっていた。そしてこの島でも、とうとう軍人たちによる統治が始まった。大和魂という言葉が適当かどうか、トノアスに病院を建てたり、環礁周辺の主要な島々に学校を建てたり、漁業やコプラの輸出に力を注いでいたりと、これまでのそういった民主的な統治は完全に失われた。

    キミオが生まれるずっと前から、チュークの人々にとって植民地支配はさほど目新しいことではなかった。ドイツがマリアナ諸島もろともこれらの島々を手に入れるまでは、スペインによる植民地支配が行われていた。クチュア村にあるキミオの家に程近い場所、海軍病院も視界に入るところに、フィノリスキリスト教学校が当時まだ存在していた。これはドイツによって支配されているときに建てられた建造物だ。こういった建物は、環礁の島々のほとんどに建てられていた。高齢のチューク人のほとんどは、聖書がきっかけで読み書きを学んだ。ドイツに代わり、大日本帝国が1920年代に統治を始める頃には、実業家森子弁を含め、少なくとも200名の商人や漁師がこれらの島々に暮らしていた。

    ココナツジュース

    ちょうどマンゴーの花が咲き始めていた。マンゴーの木の陰では、海軍将校がココナッツの甘い汁をすすりながら少年としゃべっていた。少年の美しい日本語が耳に心地よくて、ついつい会話も弾み、一緒に過ごす時間が増えていった。彼は少年に、「いつでも来なさい」と伝えてあった。大日本帝国海軍第四艦隊所属海軍基地、地元ではグンコウと呼ばれているが、れっきとした軍関係者以外立ち入り禁止区域だ。少年はいつもゲートのところで、ウチダを呼んでもらった。彼はよく、任務さえなければ今よりも頻繁に少年の家に遊びに行かれるのになぁと、そうぼやいていた。

    1942年、トノアスにある5つの村には、すでに何千という大日本帝国から送られてきた兵隊いた。キミオが生まれ育ったクチュア村だけでも、ネピには第四艦隊海軍病院が建てられていた。それはちょうど島の一番北の端、半島の一部でキミオがかつて通っていたキナムイ教会の辺りだ。そこから西の方へ向かうと、他にもいろんな建物がある中で、それはあった。第四艦隊の主力が集まっている本部だ。そこには海軍設営隊や第41警備隊も拠点を構えていた。少年の村から西に行くと、ネチャップだ。そこには潜水艦基地や艦船補修施設、それに埠頭も少なからずあった。

    ウチダのお忍び訪問

    ウチダは約束をいつも守ってくれた。クチュア村のすぐそばにあるキミオが住む家に、彼はよく遊びに来た。そして決まってお土産に日本酒を持ってきてくれた。日本酒はめったにありつけないご馳走だ。大日本帝国による統治のもと、チューク人は飲酒は禁じられているからだ。キミオ少年は、すぐにナオシ・シライおじさんのところへ持っていった。彼は同居する家族や親せきの中で最年長者であり、そして日本人とチューク人とのハーフだ。

    辺りのマングローブが波打つように揺れていた。夕暮れ時が涼しい風を運んできたようだ。大日本帝国の軍人である彼を、支配されている側の2人のチューク人が対等にもてなしていた。不思議な光景だ。邪魔にならない程度の距離から見守るキミオ少年。パンダナスで編んだ座布団にあぐらをかいて座る年長者2人はといえば、ココナツミルクで蒸したタコをつまみに酒を酌み交わしていた。ココナツの杯でちびちびと飲む時間が、ナオシとウチダにとってかけがえのない時間だ。戦争が起きていることなんてまるで嘘のようだ。

    ウチダが徐々に口を開く。はじめのうちはじっくりと言葉を選ぶように。彼は溶接工。第四艦隊所属の艦船補修部隊にいるそうだ。ナオシはキミオよりも度胸があるのかもしれない。大日本帝国の軍人が、気に入らない相手の首を刀で切り落とすという出来事はさほど珍しくはない。そういったキミオが抱えている恐怖心をよそに、ナオシは堂々とウチダに質問を投げかける。日本人の血が半分流れているからだろうか。

    近頃ウチダはよく遊びに来るようになった。キミオの家族も彼と過ごす時間を楽しみにしていた。時々冷えたビールも持ってきてくれた。パンノキの実が食べ頃になると、家族の女性たちはよく実を薄くスライスして、油で揚げる。ちょうどポテトチップスのような感じだ。漁師として腕のいいナオシとキミオは、捕ってきたばかりの新鮮な魚介類を刺身にしてもてなした。搾ったライムの鮮烈な香りが刺身と相まって、宴のご馳走の完成だ。

    トノアスでの娯楽

    1923年といえば、関東大震災のあった年だ。農業も経済も壊滅的な被害を被った。そして多くの人々がこぞってこの南洋群島にある島々に避難してきた。植民地であったこれらの島々への流入は後を絶たなかった。それだけではない。当時未婚男性の数がピークに達していた。その中には、娯楽を求め島々を訪れる男性たちも決して少なくはなかった。すると日本人の数は一気に膨れ上がった。

    意外にも、軍人の次に多かったのは沖縄から来た漁師たちだった。彼らは比較的20年代の早い時期からチューク環礁を拠点にしていた。とても働き者だと評判がよく、マグロ漁船を巧みに操っていた。彼らは船のことをアクと呼んでいた。一日の重労働がひと段落すると、決まってトノアスの活気に満ち溢れるバーに繰り出していた。そこには酌婦と呼ばれる女性従業員がよく彼らに泡盛をついでいたが、ついでに夜の相手もしていたらしい。

    トノアスの街には茶屋や花街といった娯楽施設が何軒も軒を連ねていて、海軍や陸軍の軍人たちが足しげく通っていた。ウチダには縁のない場所だったようだ。上級下士官の彼でさえ入店が許されないトキワという店があった。海軍では彼のもっと上官たちが通っていた。彼の階級で通うことができたのは、マルマンやヤマタ、ナンカイといった店だ。どれも1級の店ばかりで、酒やビールが飲めたり、麻雀を楽しんだりすることもできた。そして店内のビクトローラ蓄音機からは、日本の流行音楽が流れていた。SP盤レコードのラベルには、淡谷のり子とあった。当時日本で絶大な人気を誇っていた歌手だ。

    海軍慰安部隊が担っていた役割というのは明らかで、おもに朝鮮半島や沖縄からの売春婦の集まりだった。外見こそ芸者を真似ていたものの、身なりは貧しかった。ぼろぼろのレーヨン素材でできた着物に似せた服装で、化粧も湿気と汗で崩れていた。

    ウチダにとっては戦友たちとのどんちゃん騒ぎよりも、チューク人の友人たちとまるで家族のような雰囲気の方が気に入っていた。彼にはお気に入りの場所があった。ナオシのパンダナスで編んだ座布団を持っていき、そしてマングローブの浅瀬でぴょんぴょんと跳ねるトビハゼの群れをぼんやりと眺めながら、時折チューク環礁から吹いてくる心地よい風を感じていた。

    アイセック、シライ両家が暮らす家にウチダは頻繁に訪れる。そしてキミオはウチダに会えるのをいつも楽しみにしていた。彼に会えば、少年が持つ無邪気な好奇心を満足させてくれるからだ。無論、ほどほどにしているつもりではあった。

    愛国丸

    1943年、彼らが出会って1年が経った頃、ウチダは愛国丸に異動となった。この船の名前にある「愛国」という言葉。祖国を愛す、大日本帝国を愛すという風に、ほかにも色んな意味で使われていたようだ。さらに、「丸」という言葉は、日本人の一致団結を指すそうだ。それにしても、とても軍艦には見えない豪華な船だ。それもそのはず。軍に徴用されなければ、豪華客船として大切な乗客の安全な航海と、そして帰りを待つ人たちのところへ無事に送り届けるという責務を全うしていたに違いない。

    有名な造船技師であるハルキ・ワツジ博士が設計した愛国丸は、O.S.K. ライン(当時の社名は大阪商船)に納められ、貨客船(貨物と旅客)として日本と南アメリカを結ぶ航路に就航する予定だった。実は愛国丸には、護国、そして報国丸の2隻の姉妹船がいた。1940年に建造され、後に世界でも有数な豪華客船として脚光を浴びるはずだった。

    豪華客船愛国丸が世界の海へデビューする夢は、天皇の膨らむ野望によってかなわぬ夢となった。連合艦隊の総指揮をとる山本五十六(やまもと いそろく)は、ハーバード大学で学んだ後、1925年から1928年まで海軍駐在武官としてワシントンに滞在していた。1940年、母国大日本帝国の厳しい財政の中で艦隊の軍備増強を図るため、五十六はある奇策を思いつく。それは、船舶大量徴用政策だ。これにより、軍による大規模な民間船舶の徴用が実現した。中には貨物船が武装した商業用クルーザーになったケースもあった。やがて太平洋戦争が勃発し、開戦時には艦隊全体の30%が軍事徴用された船舶となり、482隻、総重量にするとおよそ1,740,200トンにのぼった。

    生命線

    周りを海に囲まれた国々にとって、海上の安全の確保は必要不可欠だった。そのため、イギリスやアメリカ、大日本帝国といった国々にとって、強力な海軍を持つことこそが、国民の生活を豊かにし、さらに国民を守ることだと信じていた。パリロが「第二次世界大戦中の日本の大商船団」で述べたように、当時大日本帝国は「第二次世界大戦の真っ只中で、地球の1/3を行動範囲にしていた恐るべき存在」となっていた。さらにこう続く。

    大日本帝国の大商船団は、国の経済と外交に多大な影響力をおよぼし、なくてはならない存在となっていた。この第二次世界大戦で、武器や戦闘機を量産できる工場があるのも、艦隊が物資を補給できる十分な数の港があるのも、さまざまな製造にかかわる労働人員を十分に投入できるのも、すべて海上の安全が確保されているからだと言っても過言ではない。つまり、大日本帝国が戦争できたのは、きわめて優秀な海軍を有していたからだ。

    兵士の海上輸送には、おびただしい数の船を必要とした。大日本帝国によって占領された国や、統治を委任されていた南洋群島への派兵に必要な船団を確保するのは容易ではなかった。物資の供給をする範囲も、アリューシャン諸島からソロモン諸島、ニューギニアはナウル、そしてマーカス諸島といった場所にも及んでいた。配給できる食糧の供給量も、1日に900~1,800グラムと地域によってばらつきがあった。その頃、こういった島々で物資を必要としている人々は50万人にものぼった。そして、200万トンもの商船が必要する中、一刻も早く補給ラインを整備することが求められた。すなはち、海軍をさらに強化し、海上輸送の更なる安全を確保することだった。

    当時の大日本帝国にとって、天然資源の海上輸送が果たした役割は大きい。安全な輸送ルートを確保できたからこそ、軍備の拡大を実現できたからだ。ちなみに、大日本帝国を起点に海上輸送ルートを描いてみると、ちょうど葉っぱのない木を逆さまにしたようになる。木の幹は小笠原諸島に向かって伸びていき、マリアナ群島をさらに下ってチュークのところで枝分かれを始める。ここからある枝は東のマーシャル諸島の方へ伸びていき、そしてまたある枝は南のニューギニアやソロモン諸島、ラバウルの方へ伸びていった。

    武装民間船小艦隊

    大日本帝国海軍の司令長官となった山本五十六は、南洋群島の防衛を強化するために、武装民間船による艦隊を組織することを指示。そして、1941年11月、第24戦隊が結成されると、愛国丸は豪華客船としてデビューすることなく、戦艦としてマーシャル諸島防衛の任務に就く。1942年になると、この美しすぎる戦艦はチュークを訪れていた。溶接工のウチダはというと、ほぼ海軍予備兵士たちで構成された船員の一人として乗船することになった。

    キミオはもうウチダに対してちっとも物怖じしない。彼が愛国丸での任務について伝えたときだ。

    「どうして、愛国丸に行っちゃうのさ?」とキミオはたずねた。

    「俺にしかできないからな」とウチダは答えた。

    「何をさ?」と少年は引き下がらなかった。

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